貞淑な妻のための礼儀作法




「あ!私、見たことの無い茸を見つけましたわ」

ルアークが突然しゃがみこんだアリシアの背後からひょいと覗き込めば…その視線の先に彼女の差す「茸」をすぐに見つけることが出来た。
が、しかし。
その形はルアークの知る茸とはあまり似ておらず、かさの付いていない棒状のそれは…しかも毒々しいほどに、紅い。

「是非とも試食してみなければなりませんわね」
「…やめといた方がいいと思うよ」

手を伸ばしながら弾んだ声を上げるアリシアに、ルアークは笑いを噛み殺しながら答えた。

「どうしてですの?」

見た目からしてかなり怪しい。
これのどこをどうすれば食べてみようなんて発想が浮かぶのか。
こっちの方が聞きたいよ。

「うーん…多分、毒茸だから?」
「そうでしょうか」

アリシアの落胆した様子にルアークは慌てて付け足す。

「とりあえず持って帰ってみる?食べられるかどうか調べればいい。ほら…カシュヴァーンおにいちゃんの部屋にたくさん本があったでしょ」

カシュヴァーンの私室、というには若干の語弊がある。
ルアークが口にしたのは正確には続き部屋になっている書庫のことだが…そこにはアズベルク地方の資料や文献が多数置いてあった。

…まぁ、その中にアリシアの必要とする「茸図鑑」を見つけられるとは思えないけど。

自分はアリシアが大好きなのだ。
とっても。
だから出来る限り彼女の表情が曇るようなことはしたくないと思う。

だから…ごめんね、カシュヴァーンおにいちゃん。

アリシアの暴走を止めるという汚れ役をこの場に居ない主に押し付けて…ルアークはにっこり笑ってみせた。

「そうですわね!それがいいわ」

眼鏡の奥の、青い瞳をきらきらさせてアリシアが再び茸に手を伸ばす。
腕に引っ掛けられていた小さな籠に嬉々として採取していく姿を、ルアークは微笑みながら見守った。












「まぁ!なんですの、それは」

ノーラの声に台所にいた全ての人間の視線がアリシアの持つ小さな籠に集まる。
最近のアリシアのお気に入りは屋敷を囲む黒い森の散策だ。
とはいってもカシュヴァーンが承諾したのはごくごく屋敷周辺に限ってだが…それでも彼女にしてみれば新たな発見の連続らしい。
しかもそこで目に付いた「食べられそうなもの」を持ち帰ることで更に充実感を得ているようだった。

「何って…茸ですわ」
「茸ですって?!」

茸らしからぬ形と色のそれを、ノーラはきつく睨んでオウム返しに喚く。

「百歩譲って茸でもかまいませんけど、明らかに食用ではないでしょう!そんなものを台所へ持ってきたりして…肥料要らずの時といい、奥様は屋敷中の者を殺してしまうおつもりなんですね、やっぱり!」
「まぁ。ノーラはこの茸、知ってますの?」

ルアークはアリシアが屋敷に入った途端、いつものようにふっと姿を消した。
夫とはいえ主が不在の部屋に勝手に入る訳にもいかず、料理人達ならこの茸の正体を知っているかもしれないと帰宅後まず台所へ直行したアリシアだったが…その考えはある意味、正解だった。
……答えをくれたのはこの屋敷の人間ではなかったけれど。

「火焔茸です、アリシア様」
「あら、レネ。お久しぶりですわ」

さらりと会話に加わった少女の名を笑顔で告げるアリシア以外、台所に居た者は背筋を凍らせて声なき悲鳴を飲み込んだ。
ルアークで慣れつつあるとはいえ、未だに神出鬼没の存在に全く動揺しないのは死神姫こと、強公爵カシュヴァーン・ライセンの妻だけだ。

「毒茸ですので食べないで下さい」
「……本当に食べられないの?」

食い下がるアリシアにレネはきっぱりと言い切った。

「以前、それを酒に漬けて食べた者を知っています。一口で即死でした」

どこにでも好奇心旺盛な者はいるらしい。

「そう。…残念ね」
「だから言ったでございますでしょ!早く捨ててきてくださいませ、奥様!!それからレネ!あなたも突然現れるのは止めていただけないかしら?訪問ならきちんと門からお入りになって!」

怒りに豊かな胸をふるんと震わせて正論を唱えたノーラだが、目の前の二人の話題が早くも別のものになっていることに気付く。
「貞淑な妻のための礼儀作法」というタイトルの本を斜めがけにした鞄から取り出したレネがアリシアにそれを差し出している。
また「良き夫婦」がどうとかいう話なのだろう。
アリシアも変わっているがレネもノーラの常識から十分に逸脱した存在だ。
これ以上二人の相手はしていられないとばかりにノーラは木卓に置きっ放しにされている火焔茸の入った籠を奪うように手にすると、自らそれを処分するために台所から姿を消した。





「礼儀作法…?私の好きな死神や狼男の類は出てきそうにありませんわね。首無し騎士も」

文字だけの表紙を眺めてアリシアはつまらなさそうに呟いた。

「でも円満な夫婦生活を送るためには必要な知識です。私はもう読み終えましたのでアリシア様にと思いまして」
「いただけますの?」
「はい。宜しければどうぞ」
「そうねぇ…私、以前カシュヴァーン様にいちゃいちゃの知識について尋ねられたのですけど正しい答えを返せなかったみたいだし…」

その時のことを思い出して彼女にしては珍しく考え込む様子をみせた。
アリシアとて気にはなっていたのだ。
とはいえ…すでに母は他界しており、今更自分にそういう知識を与えてくれる人もいない。
それがこの本で解決するならば死神や狼男が出てこずとも読む価値はあるだろう…いや、むしろ読むべきではないのか。
だって、ただなんだもの!

「初夜の礼儀作法も載っています」

アリシアの手に渡った本を逆さまから覗き込み、レネがぱらぱらとページを捲る。

「あら、本当ね!夜着の選び方まで書いてあるわ」

開かれたページに描かれた夜着を眺めながら弾んだ声を上げたアリシアに、レネは真剣な表情で今度是非この本の実践報告が聞きたいと告げた。

「もちろんよ。ありがとう、レネ」
「では私はこれで失礼します」
「もうお帰りになるの?カシュヴァーン様に用があったのではなくて?」
「今日はその本をアリシア様に渡したくて立ち寄っただけですから」
「そうなの。今度はゆっくりいらしてくださいませね」

アリシアの言葉にこくりと頷いたレネの姿はいつの間にか窓の外へ…そして風景に溶け込むように見えなくなっていた。
代わりにふわりと運ばれてきた匂いにアリシアが振り返れば、すっかり存在を忘れ去られていた料理人達がいそいそと夕食の準備に取り掛かっている。

「私もお手伝いしましょうか?」

アリシアの申し出に料理長のダンは慌てて首を横に振った。

「いいえ、奥様。夕食にはまだ時間がありますのでここは私達で十分でございます」
「あら、そう?でしたら私…部屋でレネに頂いた本を読ませていただきますわ」

そう言って台所を後にしたアリシアの背が完全に消えてから…残されたダンと料理人達は顔を見合わせて呟く。

「間違った解釈をされなければいいが……」
「そうだな」

ノーラがアリシアとレネの会話を聞いていたなら間違いなく本を取り上げただろうに。
ダンは肝心な時にいない奥様付きのメイドを思い浮かべてそっと溜息を吐いた。












「アリシアはどうした?」

カシュヴァーンは珍しく自分より先に食卓に着いていない妻の行方を尋ねた。
そういえば彼女付きのメイドも見当たらない。

「ノーラが少し前にアリシア様を呼びに行ったはずですが…」

トレイスが心配げに呟いた後、様子を見に行こうとしたのをカシュヴァーンは片手で制した。

「いや、いい。俺が行く。お前はそのまま食事の準備をしててくれ」

有無を言わさず背を向けて廊下に続く扉を開けたところでカシュヴァーンはノーラと鉢合わせた。

「カシュヴァーン様!」
「…アリシアは?」

一瞬驚きはしたものの、すぐさま表情を取り繕ったノーラは意味ありげに目を伏せた。

「奥様はその…取り込み中ですわ。ルアークと」
「どういうことだ?」
「ご覧になればわかります」

ノーラの声色が意味深で…カシュヴァーンの眉間にシワが寄る。
しかし、それ以上は何も尋ねず無言のまま大股で歩き始めた主の後を、ノーラはこれから起こる自分に都合の良い場面を想像して含み笑いを隠しもせず付き従った。





「ルアークは男の子ですものね。私に教えて下さいません?」

当然知っているだろうとアリシアは思っているようだ。
事実、知ってはいるけれど…

「や…そんなこと教えちゃったら俺がカシュヴァーンおにいちゃんに殺されちゃうから」
「そんなこと?」

それほどまでに言い難いことなのかとアリシアは小首を傾げた。
いつもはっきりと物を話すルアークにしては歯切れの悪い答えだ。

「それに俺、息子だし。夫婦間のことは夫婦で解決した方がいいんじゃないかな…わ!」

寝台の端に腰掛けて話していたルアークが立ち上がったところに追いすがったアリシアはバランスを崩し床へと倒れこむ。
きゃっと小さな悲鳴を上げたものの、しかしルアークに庇われてどこも打ち付けてはいない。
床の上で「大きな息子」を押し倒したまま…アリシアは何事も無かったかのように質問を続けた。

「カシュヴァーン様には聞きたくありませんの。だって内緒で…」

バン!と派手な音がして予告もなく扉が開かれる。
アリシアの部屋にノックも無しで入ってきたのは黒い塊…もとい、カシュヴァーンだった。

「…何をしている?」

低い声を発した彼はアリシアとルアークを代わる代わる見た後、ルアークに焦点を絞った。

「やだなぁー。ヘンな誤解はしないでよね、おにいちゃん」

身の危険を感じたルアークは場にそぐわない明るい声でおどけて見せたものの…その身体の上には依然アリシアを乗せたままで。
カシュヴァーンの纏う空気は一層冷ややかなものになる。
彼はルアークからふっと顔を背けてアリシアの腕を掴んだかと思うと力任せに引き起こした。

「またね、アリシア」

自由になったルアークが素早く壁際に移動する。
挨拶もそこそこに姿を消した死神に軽く舌打ちした後、カシュヴァーンは腕に閉じ込めた幼い彼の妻の顔を覗き込んだ。

「俺には聞きたくないって何だよ」
「…ごめんなさい」

素直に謝られると腹が立つ。
こういう場合は普通言い訳をするもんだ。

「何が知りたい?」
「………」
「アリシア」

背を丸めたカシュヴァーンが額が合わさるほどの距離にまで近づく。
有無を言わせぬ口調で名前を呼ばれたアリシアは夫の機嫌の悪さを肌で感じ取っていた。
本当は内緒で勉強して驚かせたかったのに…どうやらそうも言ってられない雰囲気だ。
アリシアはカシュヴァーンの、間近にある黒い瞳を見つめて小さな声で呟いた。

「男の方の…舐めたら気持ち良くなる場所というのを聞いてましたの」
「はぁ!?」

思わず絶句したカシュヴァーンにアリシアは構わず言葉を続ける。

「本に手順は載ってますのに…肝心な場所が分からないのですわ」

体のどの部分か、明確な表記を避けた文章ではアリシアには想像すらつかない。
ルアークに聞こうとしたが結局答えは教えてくれないまま…今に至っている。

「お…お前、一体どんな本を読んでるんだ!?」

カシュヴァーンの焦った声にアリシアは寝台の上に開いたままの本を指差した。

「今日レネに頂きましたの。私、カシュヴァーン様を気持ち良くして差し上げたくて…」

アリシアの身体から腕を解いたカシヴァューンが本を拾い上げる。
開かれたページに視線を落とした瞬間、その内容に彼は硬直した。

「…カシュヴァーン様?」

心配そうに寄ってきたアリシアに下から顔を窺われ、やっとの思いで口を開く。

「まだ正式な初夜も迎えていないんだぞ…俺達は」
「それと何か関係がありますの?」

大有りだ!と心の中で叫ぶカシュヴァーンの心情などアリシアが知る由もなく…
彼は手にした本を放り出し、再び幼い自分の妻を腕の中に閉じ込めた。

「二人とも…お離れになってくださいませ!」

部屋の入り口で事の成り行きを見守っていたノーラだが、どうやら自分の思う展開とずれてきたことを悟ると慌てて二人を引き離しにかかった。

「奥様、お腹が空いているのでは?もうとっくに夕食のお時間ですわよ!今日のメインディシュは鴨のソテーでしたかしら」

アリシアにとって最も有効な台詞。
そう言われればと空腹を実感したアリシアが首を仰け反るようにして高い位置にあるカシュヴァーンの顔を見上げる。

「あの、カシュヴァーン様…」
「まだ話の途中だ」

一瞬にして夕食のメニューに心を奪われたアリシアに苦笑しながら、カシュヴァーンは顔だけをノーラに向けて先に戻るよう告げた。

「せっかくの食事が冷めてしまいますわ」
「…すぐに行くと言っているだろう」
「……わかりましたわ」

以前より遥かに温和になったとはいえ、元来気性の荒いカシュヴァーンだ。
その瞳に冷ややかな光が灯り始めるのを素早く察知したノーラは未練を残しながらもそれ以上何も言わず足早に部屋を出て行った。

「さて、アリシア。その本に書いてあることだが…」

ちらりと本に視線を飛ばした後、カシュヴァーンは腕の中のアリシアを抱き上げて口の端を吊り上げる、見ようによっては意地の悪い笑みを張り付かせた。

「ライセン家にはライセン家のやり方…というか俺のやり方がある。あんな物を読まずとも俺が一から教えてやるから心配するな」

きょとんとしたアリシアの瞳を見つめてカシュヴァーンが喉の奥で笑う。

「それでは不服か?」
「そんなことありませんわ!でも…」

出来ることならこっそり練習して驚かせたかった。
理想の旦那様の、理想の妻であるために。

「…アリシア」

彼女の気持ちを読み取ってか、カシュヴァーンは溜息と共に目を伏せた。
どれだけ俺に尽くすつもりなのだと問いかける言葉を飲み込めば、アリシアの言うところの「おなかが痛い」感覚に襲われる。
当初の予定では妻なんて地方伯の持つ名誉と歴史を取り入れるための飾りだと割り切るつもりでいたのに……

「俺だってお前を気持ち良くさせてやりたいんだがな」
「え?」
「…いや、何でもない」

果たして自分は妻を…アリシアを幸せにすることが出来るのか…
自分と別れることこそが彼女の幸せではないのか?

一度膨らみかけた不安は事あるごとに大きくなる。
それでも…

「もう暫くは夢を見させてくれ」

軽く触れるだけの口づけをかわせばアリシアの腹がくぅと鳴った。
頬を染めた妻をそっと床に降ろすとその背を押し食堂へと誘う。

「食事に行くか。皆を待たせているからな」
「はい!」

素直に頷いたアリシアに微笑を返しながら歩き出したカシュヴァーンは後ろ手で扉を閉める直前、部屋の中を振り返った。

「…その本、アリシアの目の届かないところへ片付けておけよ」

ぼそりと呟いた低い声に答えたのは締め切った部屋から感じた不自然な風だった。








初「死神姫」です。
カシュ様の苦悩が(笑)萌えツボを突くんですよね…
早くくっついて欲しいような、片思い(結婚してるのに・哀)カシュ様を見ていたいような…複雑な心の葛藤☆


2008.08.24
まゆ