吸血鬼の口づけ




カシュヴァーン様は私を買われた。
だから私を…売ることだって、出来るの。

そんな当たり前のこと、どうして今まで思い付かなかったのかしら…?


私って本当に贅沢になってましたのね。












「どうなさいましたの、それ」

ノーラに指摘されたものの、アリシアは意味がわからず首を傾げた。

「私の顔に何か付いてまして?それとも…」

寝癖でも?
そう尋ねながらアリシアは眼鏡に手を伸ばした。
ぼやけた視界が輪郭を取り戻すのを待って寝台から降りる。
部屋に備え付けられた鏡を覗き込んだところで、さすがのアリシアも怪訝な顔をした。

「瞼が腫れてますわね。虫にでも刺されたのかしら?」
「…両目を均等にですか、奥様」

ノーラはアリシアの返答に盛大な溜息を吐いた。
本人は自覚がないようだが…どう見ても泣き腫らした痕だ。

「馬鹿なことを言ってないで寝台へお戻りくださいな、奥様」
「どうして?ノーラは起こしにきてくれたのでしょう?」
「どうして、じゃありませんわよ!そんな顔で人前になど出せませんわ!!氷を持ってきますから先に冷やしてくださいませッ」
「それはそうね…でも、朝食…」

手を当てた腹をくぅと鳴らしたアリシアに、ノーラは更に声を荒げた。

「朝食はこちらに運びます!それで良う御座いますでしょ?!」
「…えぇ」

勢いに押されたアリシアが頷くのを見て扉へと向かう。
廊下へ出たノーラはもう一度念を押すことを忘れなかった。

「勝手に部屋から出ないでくださいませねッ!!」





「ルアーク!ルアーク、居るんでしょう?」

辺りをきょろきょろ見渡して「死神」の名を呼ぶ。
ノーラがこうしてルアークを呼び出すなど初めての事だ。
窓の少ない石造りの壁と漆黒の床。
朝だというのに薄暗い屋敷の廊下に、呼ばれた死神は気配もなく現れた。

「はーい、ノーラ。俺に何の用?まさかこんな朝っぱらから色っぽいお誘い?」
「あ、あなた、何を考えてますの?!」

首筋にふっと息を吹きかけられて慌てるノーラをルアークはあははと笑い飛ばす。

「聞きたいことがありますのよ!…真面目な話ですわ」
「わかってる。アリシアのことだろ?」
「…」

ノーラが黙ったことを正解だとみなしたルアークは一人言葉を続けた。

「ノーラの察してる通りだよ。最近…アリシアはよくうなされてる。本人は覚えてないみたいだけど昨日のはちょっと酷かった」
「…オーデル公爵のせいね」
「だね」

詳しい話を聞いた訳ではない。
しかし、あの夜…ロベル家の庭で起こった出来事はノーラにも容易に想像がついたし、「奥様付きのメイド」として止められなかったことにも少なからず責任を感じている。

「あのおにいちゃん、アリシアに…保身のために差し出されたとか一夜いくらだとか言ったんだよね」

おまけに強引な口づけまで。

「…最低の下衆野郎ですわ」
「うん」

ノーラの評価にルアークも同意を示した。
表面上、すっかり忘れてしまったかのように見えるアリシアの、心の奥底に突き刺さった棘。
それは小さくとも未だに彼女にとって「肥料要らず」以上の毒を与えている。
取り除くことが出来るのは本来カシュヴァーンしかいないはずなのだが……

「カシュヴァーンおにいちゃんもやられちゃってるからねぇ」

いつでも別れられるようにしておくことがアリシアへの愛の証だと信じてる。
そんなこと「お姫様」は望んでいないのに。

「どうにかなりませんの?」
「あれ?ノーラは正妻の座に納まりたいんじゃなかったっけ。諦めたの?」
「そんなわけあるはずないでしょ!私はただ…」

ただ…そう、ただ単純に泣き腫らした顔のアリシアを見るのはひどく気分が悪い。
そしてそれは「死神」とて同じはず。

言葉を切ったノーラに変わってルアークが口を開く。

「わかってる。ここは息子の俺が何とかしないとね」

大好きな二人のために。

「任せましたわよ」

ノーラの一言はふわり風を残して消えた死神に託された。
少しだけ気分を軽くしたノーラは地下の氷室へと急ぐ。

「氷は泣き腫らした瞳を冷やすためのものではありませんのよ、奥様」

いつの間にか「アリシア」という存在を容認しつつある自分を覆い隠すように、冷たい口調で呟きながら。












「ハーブティーですわ。…良い夢が見られますから飲んでくださいませ」

就寝前に運ばれてきた一杯のお茶。
嫁いで以来、こんなことは初めてだ。
広がるカモミールの香りを吸い込んで、アリシアはノーラを見上げた。

「例えば、どんな?」
「…まぁ、その…あれですわよ、奥様の好きな首無し騎士とか狼男とか…」
「素敵!」

しどろもどろのノーラの返答を気にする風もなく、カップを口へと運ぶ。
一口含めば優しい甘さが広がった。

「蜂蜜入りなのね。とても美味しいですわ!」
「そうでしょうとも。私が淹れたお茶ですもの」

こくこくと飲み干され、空になったカップがノーラ返される。

「有難う、ノーラ」

微笑みながら眼鏡を外したアリシアは箪笥に向かって礼を述べたが、すでに慣れっこになっているノーラはわざわざ訂正することもしない。

「お休みなさいませ」

そう返して卓の上の燭台の火を吹き消した。







「カシュヴァーンおにいちゃん、お帰り」

緑の緞帳の影から現れたルアークにカシュヴァーンは一瞬息を止めたが…すぐに気だるそうな表情に戻り呟くように返事を返した。

「何だ、こんな夜中に」
「うん…ちょっとね。アリシアのことなんだけど」

アリシアという単語にカシュヴァーンは脱ごうとしていたマントの金具から手を離した。

「アリシアがどうかしたのか?」

何者かに襲われたのか、はたまた怪我でもしたのか…
瞬時に巡る悪い考えに否定の言葉は返らない。
カシュヴァーンは動かないルアークに大股で詰め寄った。

「何があった?!」
「…今日一日、アリシアに会わなかったよね」
「あ?…あぁ」

カシュヴァーンは先日のロベル家での一件で予想以上に領地を留守にしてしまったため、溜め込まれた仕事に追われている。
今日の帰宅が遅くなったのもそのせいだ。

「明日も会えない?」
「…何故そんなことを聞く」
「会えないの?それとも忙しいのを理由に…会いたくないの?」
「何が言いたいんだ、ルアーク」

いやに突っかかってくる「死神」を見据えて溜息を吐く。
雰囲気からしてアリシアに差し迫った危機がある訳ではないらしい。
そう勝手に解釈したカシュヴァーンはルアークに背を向けて再びマントの金具に手を伸ばした。

「アリシア、泣いてるんだけど」

…アリシアが泣く?

あまりにもピンとこなくてカシュヴァーンは不思議そうな顔をした。
いつもにこにこ笑っていて泣いているところなど見たことが無い。
…怯えた顔なら何度か見たが。

「半分はカシュヴァーンおにいちゃんの所為だからね」

きっぱりと言い切られて更に戸惑う。

「ルアーク…わかるように説明してくれ」
「今も独りで泣いてるの」

今も、独りで、泣いてる。

その意味を頭で理解した途端、カシュヴァーンはあっという間にマントを翻して部屋を出て行った。

「頼むよ…お父さん。お母さんの傷を癒せるのはお父さんだけなんだから」

幸せを求めることに臆病なカシュヴァーンと、手にあるもので満足してしまうアリシア。

「…二人とも、もっともっと欲張りでいいのに」

ルアークは緑の緞帳の端をぎゅっと掴み、主の居なくなった部屋の中で誰に聞かせるともなく呟いた。





コンコンと二度、遠慮がちにノックして…そっと扉を押し開ける。

「…アリシア?入るぞ」

壁際の燭台に一つ火が灯っただけの薄暗い部屋を、夜目の利くカシュヴァーンはまっすぐ横切って寝台に近づいた。

「寝てるのか?」

そう呟いた声に反応してか…こちらに寝返りを打ったアリシアを見てカシュバーンは息をのんだ。

「おい、アリシア」

まだ乾ききっていない涙のあとの残る頬に手を伸ばす。
指先にいつもとは違うひんやりとした温度を感じて、カシュヴァーンは慌てて手を引っ込めた。

「…ごめんな…さい……カシュ…ヴァーン様…」
「何を誤っているんだ、お前は」

ゆっくりと瞳を開けたアリシアがカシュヴァーンを見た。
しかし完全に覚醒した様子は無い。
フェイトリンの空を映したような青い瞳は焦点が合わず、虚ろに揺れている。

「贅沢は…言いません……売られても…我慢…しますわ」

きりきりとカシュヴァーンの胸が痛んだ。
普段の態度が全く変わらないように見えていたため気付けなかったが、ロベル家での出来事がこれほどまでに彼女に傷を残していようとは!
今ここに居ない彼…オーデル公爵を刺すような視線で思い浮かべたカシュヴァーンだが、次のアリシアのうわ言を聞いてそれは間違いだと知った。

「だから…手放す…などと……おっしゃらないで…」

それは自分に対する懇願。
堪らなくなって、カシュヴァーンは上掛けからはみ出した細い肩を覆いかぶさるようにして抱きしめた。

「…すまない、アリシア」

全ては自分の言葉によるもの。

「側に…置いて…ください」
「わかった。…わかったから…もう泣くな」

手放してやるのがアリシアにとって一番幸せなことなのだとその気持ちは今でも変わらないし、そう信じている。
しかし、万が一…ルアークの言うように「死神姫」が「怪物」と結ばれることを望むならば……

カシュヴァーンはアリシアの頬を伝う涙を唇で拭い取るとそのまま耳元に囁きかけた。

「ずっと俺の側にいろ。……本当はそう言いたかったんだ…」












アリシアは息苦しくて目が覚めた。
身体中が締め付けられる感覚。
ぼやける視界は限りなく黒く……

「カシュヴァーン…様?」

自分の身体に巻きつくものの正体は此処に居るはずのないカシュヴァーンらしかった。

「まぁ、カシュヴァーン様ったら寝ぼけて部屋を間違われたのね」

ロベル家の屋敷から戻ったアズベルクの領主を待っていたものは山積みの書類と山積みの揉め事だった。
それを片付けるためにカシュヴァーンが連日の深夜労働に勤しんでいることを知っていたアリシアは深く考ずそう納得した。
夜着にも着替えず服のまま寝入っているカシュヴァーンを起こさないように彼の腕の中から抜け出そうと努力をしてみるものの全く動けない。
それならばとアリシアは密着した身体に隙間を作るべく…両手でカシュヴァーンの胸をそっと押してみた。

「…ん」
「あら、起こしてしまいました?」

うっすらと目を開けたカシュヴァーンがアリシアの声に眉を顰めたかと思うと次の瞬間、慌てて上体を起こした。

「なんでお前がここに…」
「ここは私の寝台ですわ。間違われたのはカシュヴァーン様の方です」

急に束縛を解かれて何故か少し寂しい気分を味わいながらアリシアも身を起こし、寝台の上に膝を崩してぺったりと座った。
そして、目の前の柱…のような黒い塊のカシュヴァーンに改めて朝の挨拶をする。

「カシュヴァーン様、おはようございます」
「あぁ…おはよ……うわっ!」
「…うわ?」

あからさまに驚きの声を上げたカシュヴァーンの視線を感じアリシアは昨日の朝の瞼の腫れを思い出した。

「ごめんなさい。カシュヴァーン様を驚かせるほど腫れていまして?」

それは大変とばかりに眼鏡を掴むと寝台を飛び降りる。
アリシアが眼鏡をかけて鏡を覗き込めば…そこにはいつもと変わらない自分の顔があった。

「あら、今日は大丈夫ですわ」

では何故カシュヴァーンが驚いたのか。
鏡の向こうで不思議そうに小首を傾げた自分の…首!!

「なんですの、これ」

もちろんカシュバーンが答えるわけもなく。
蒼白になっている夫に気付きもしないでアリシアははしゃいだ声を上げた

「もしかしてこれは……ヴァンパイア?!」
「…は?」
「カシュヴァーン様、素敵!私…ヴァンパイアになるかもしれませんわ!」

どう答えるべきか。
カシュヴァーンが頭を抱えたところで扉を叩く音が聞こえてきた。

「奥様、朝ですわよ」

身支度を手伝うためにやってきたノーラは上機嫌のアリシアと…彼女の寝台に居座っているカシュヴァーンとを交代に眺めて声なき悲鳴を上げた。

「な…何をしてたんですの、カシヴァューン様!私というものがありながら…」
「何もして、ない」
「…わけないじゃん。あれ見えてるでしょ、カシュヴァーンおにいちゃん」

ひょっこりと寝台の柱から顔を出したルアークに肩を叩かれてカシュヴァーンは寝台に崩れ落ちた。

「カシュヴァーン様!」
「おにいちゃんってば案外照れ屋さんなんだね。かわいー」

怒気を含んだノーラの声とからかうルアークの声から逃げるように頭から掛布を被る。
そんなカシュヴァーンに追い討ちをかけるようにアリシアの興奮した声が続いた。

「私…ヴァンパイアに噛み付かれましたの!」

ほっそりとした白い首に紅い痕が二つ。
よく探せばもっとあったかも知れないが…とにかくその目立つ痕を指差して、アリシアは三人に満面の笑みで報告した。







その後。
アリシアはノーラに寝る前のハーブティを強請るようになり……
もちろん、泣き腫らした目で朝を迎えることも無くなった。








「死神姫」四巻を読んで。
なんかカシュ様が切なすぎたので援護したかったのですが…しきれませんでした(苦笑)
カシュ様は妻にももっと「技巧」を使うべきです!(爆)


2008.08.24
まゆ