月にウサギとオオカミ 1




「送ってくれてありがと。また明日ね」

ひらりと身を返して自分から離れていく少女を、ナルトは慌てて呼び止めた。

「サクラちゃん、ちょっと待って!」
「何、どうしたの?」
「あ、うん。その…さ」
「ていうかアンタ…顔赤いわよ。熱でもあるんじゃ……」

ドアノブに伸ばしていた手を引っ込めて、サクラが自分の下へと戻ってくる。
目の前に立った少女を相手に、ナルトの握り締めた手のひらがじわりと汗で滲んだ。
今日サクラちゃんに言うって決めてた言葉がある。
今日って決めた限りは明日では駄目なのだ。
第一、オレのポリシーに反するし。
ナルトは思い切って息を吸い込むと悪ふざけの欠片も見せず想いを声に乗せた。

「サクラちゃんが好き…なんだ」

はっきりと伝えることなく…いつもちゃかして誤魔化してきたのは自分に自信が持てないから。
でもだからって他のヤツに譲るなどまっぴら御免だ。
ナルトは今日の昼休みに別のクラスの野郎供がサクラのことを話していたことを思い出し唇を咬んだ。
可愛いだとかそんないつものありふれた内容であればこれほどまでに気にすることはなかったのだが…その時同時に聞こえてきたもう一人の男の名が問題だった。
『うちはサスケ』
頭脳明晰、スポーツ万能。
おまけに顔が良いとくれば女の子に人気があるのは当然のこと。
そんなヤツがサクラちゃんを狙ってるなんて…
もしそれをサクラちゃんが知ってしまったら…?

「ホンキなの?」

サクラの問いかけに俯いていたヒヨコ頭が勢いよく起き上がる。

「当たり前だってば!」
「そう……」

僅かに目を伏せたサクラにナルトが半ば諦めかけた、その時。

「…考えておくわ。私、ナルトのこと…嫌いじゃないもの」

貰えたのは前向きな返事。
呆然と立ちすくんでいる間にサクラは元通り玄関の扉の前に立っていた。
その頬が薄く色づいて見えるのは…多分、気のせいなんかじゃない。

「また明日!」

家に駆け込んだクラの姿が視界から消えるまで…ナルトは身動き一つ出来なかった。

「嫌いじゃない…か。どうせなら好きって言って欲しかったってば」

口にした言葉とは裏腹に、その顔からは次第に喜びが溢れ出す。
ナルトは灯った街灯の明かりで霞む三日月に向かって大きくジャンプした。

「やったー!」










「お帰りー」

家に入ると玄関にカカシが居た。
現在私は二年の期限付き一人暮らしをしている。
パパの海外赴任にママも付いて行った結果だが、それを寂しいと思ったことはない。
良くも悪くも…このバカ犬のおかげで。

「…ただいま」

返事を返せばカカシは大きな図体で擦り寄ってくる。
『人』の形のときは止めてって言ってるのに。

「初めてじゃない?」
「何がよ?」
「告白されるの」
「…見てたわね!」
「わざとじゃないよ?サクラ遅いなーって思って外覗いたら……サクラ、顔…赤い」
「放っといて!」

人の気も知らないでイイ気なものだとサクラは思う。
伸びてきた大きな手を払いのけて睨みつけても…カカシはそれがどういう意味なのかさえ分かりもしないのだ。
だって…彼は『犬』なのだから。

「ご飯はー?」
「いらないッ」
「サクラのじゃなくて、オ・レ・の」
「……勝手に食べれば?戸棚の中にドックフード入ってるの知ってるでしょ!」

二階までの階段を一気に駆け上がり、バタンと大きな音を立てて部屋の戸を閉める。

「…八つ当たり。アノ日でもないのに何をカリカリしてんだか」

肩を竦めて呟くカカシの台詞は、当然ながらサクラの耳には届かなかった。










『カカシ』は七年前サクラが拾ってきた『犬』だ。…雑種の類の。
それが育つにつれてくすんで灰色だった毛は銀色に輝き、見た目はまるでオオカミに成長してしまった。
しかも拾ったサクラさえ暫く気付かなかったのだが…瞳は深い海の色をしている。
おかげで知らない人に何度売買の話を持ちかけられたことか。
その都度断るサクラの側でさも当然そうに尻尾を振るカカシは一人っ子の彼女にとって守るべき弟のような存在だったのに…今ではすっかり保護者気取りだ。
それがまたサクラの気を逆撫でしていた。

『カカシ』が『人間』になったのは…いや、初めて『人間に姿を変えた』のはサクラが中学に上がってすぐの頃だった。
薄暗くなった夕方の土手をカカシと散歩しているときに起こった事件がきっかけだ。
いつものようにサクラは手にしたカカシご愛用のボールを力いっぱいに投げ、カカシがボールを追いかけて走る、そんなことを繰り返していた。
そろそろ家に帰ろうとサクラが地面に置いたリードを拾い上げるため屈んだ時、不意に横から飛び出してきた男がサクラの身体の自由を奪い、地面へと押さえ付けた。
反転した視界いっぱいに下卑た笑みを浮かべた男の顔が映る。
恐怖のあまり抵抗することはおろか叫ぶことすら出来ずにいるサクラを嘲笑うかのように、男は服の裾から手を差し込んできた。
「大人しくしてたらすぐ終わるよ…」
そう言いながら近づいてくる男の唇。
吐く息は饐えた匂いがしてサクラはぎゅっと目を閉じたのだが…その瞬間、サクラを取り巻いていた不快なモノ全てが払拭された。
急いで身を起こしたサクラが「カカシが男の腕に噛み付いている」ことを理解するのとほぼ同時に…男はナイフを取り出してカカシに切りつけた。
噴出す真っ赤な鮮血が頬に飛び散って…視界がぐらりと歪む。
その目の端でサクラはとんでもないものを見てしまった。
そう…。
カカシが人の姿に変化するのを。










「サクラーぁ」

ノックも無しに部屋のドアが開く。
二人しか居ない家の中、当然入ってきたのはカカシで…サクラはベッドにうつ伏せになったまま無視を決め込んだ。
しかしカカシは気に留めるふうもなくベッドの端に腰を下ろす。
ぎしりと軋むスプリングにサクラの心拍数が跳ね上がった。

初恋が犬だなんて…本当に間抜けだ。

どうせ人間の複雑な心の葛藤など犬のカカシに分かるわけが無い、そう思うものの…如何せん彼は人の姿でサクラを惑わす。

「制服、シワになるよ。嫌なんデショ、そーゆうの」
「…誰がそんなこと言ったのよ?」
「テレビの中の援交してる女子高生」
「…」

ヘンな知識ばかりつけやがって。
ていうか、私は援交してる女子高生じゃないッ!

「ご飯持ってきたから食べれば?」
「…」
「おいしいよ。ほら」

無理やり身体を起こされて鼻先におにぎりの乗った皿を突きつけられる。
三角形それはサクラが作るものより格段に形が良かった。

「中身は梅干だから」
「…カカシは?」
「食べたよ。ドックフード」
「あ、そう」

ちらりと時計を見ればいつの間に時間が経ったのか午後八時をさしている。
食事の用意だけでなく夕方の散歩もすっぽかしてしまったようだ。
これでは飼い主として完全に失格だろう。

「大丈夫だよ。後で…サクラが寝たら一人でぶらついてくるから」

サクラの表情を読み取ってカカシが微笑む。
実際のところ一人の方が都合が良いのだ。
サクラの目を気にすることなくお目当ての彼女(当然犬だ)といちゃいちゃ出来るし。

「…ふーん。夜中私を独りにして泥棒でも入ったらどうしてくれるの」

意地悪な言い方だと自分でも思う。

「それはヤバい。オレ、パパさんとママさんにサクラのこと頼まれちゃってるからね」
「でしょ」

パパとママはあの事件以来…私が暴漢に襲われそうになったのを救ったカカシに絶大の信頼を寄せている。
そうでなければ例え私が嫌がったとしても赴任先へ一緒に連れて行かれただろう。

「じゃあ、今日は我慢しよっかな。代わりに…」
「何よ…?」

嫌な予感がしてじりじりと後ずさる。
とはいっても、シングルのベッドの上ではすぐに壁に阻まれたが。
壁に背を押し当てて顔を赤くしたサクラの頬をカカシの大きな手が包み込んだ。

「一緒に寝て?」

至近距離での囁きはサクラの思考回路を麻痺させるには十分だった。
『人間同士』の…愛の囁きだと誤解してしまいそうになる。
サクラはカカシを視界に入れないようにぎゅっと目を瞑って叫んだ。

「…その前に犬に戻りなさい!」










今宵は月が美しい。
街灯すら必要で無いほどの光を放ち…カカシの影を色濃く映し出している。
時間は午前三時を回ったところ。
この静まり返った世界で動くモノは自分しかいない。
サクラの部屋を抜け出して、カカシは玄関を出たところで本来の姿へとカタチを変えた。
ぱさりと地面に落ちた服を人目につかないように植木の根元に押しやってから外へと飛び出す。
…目的地は同じ町内のトモダチの家だ。





「ねぇ…カカシ」
「んー?」

べったりと寄り添っている、カカシの体の半分ほどしかないリンは甘えるように鼻を鳴らした。
錦糸状のウェーブがかった被毛はライトブラウンで月明かりによく映える。
サクラのとの散歩中に彼女を見つけた時、確かサクラはコッカー・スパニエルという種だと言っていたように思う。
自分にとっては人間の決めた種の名前などどうでも良いのだが。
少し湿り気のある芝生に寝そべったカカシは首だけを動かしてリンを見た。

「もうすぐ発情期なの。分かるでしょう?」
「…みたいだね」

通常メスの発情は年二回。
年中いつでも性的刺激があれば交尾可能なオスのそれとは全く違う。

「暫く来るのは止める」

それはリンが求めている答えと真逆のもので…しかし、はっきりとそう言い切られれば食い下がることも出来ない。

「…そう。カカシには本命がちゃんといるのね」
「本命…?」

不思議そうに繰り返すカカシをリンは鼻先で押しやった。

「もう帰って」

そしてもう二度と自分の所には来ないで欲しい。
そう続いたであろう別れの言葉をカカシが気付かないわけが無いのに。

「またね」

カカシはそう優しく囁いてから白みがかった東の空に向かってジャンプした。
少し高めの生垣もカカシには障害になり得ない。
音も無く着地したカカシは真っ直ぐ家に向かって走り始めた。
サクラの待つ、帰るべき家に。










午前七時少し前。
六時半にセットした目覚ましはすでに止められて床に転がっている。
カカシはくぅんと鼻を鳴らしたが…主が起きる気配は全く感じられなかった。
しょうがないのでいつものように前足をベッドにかけて顔を近づけ…ベロベロと嘗め回してやる。
…早くしないとまた朝食抜きで飛び出す羽目になるデショ。

「ちょっ…ちょっと何すんの!」

飛び起きたサクラがカカシの顔を横殴りに殴った。

「わふ…?!」
「あ!…ごめん、カカシ」

犬の声にサクラの意識が覚醒する。
だって、さっきまで彼は人間の姿だったんだもの。…サクラの夢の中で。
ばくばくする心臓を深呼吸で落ち着かせてサクラはベッドから降りた。

「着替えるから」

その一言にカカシはひらりと身を翻す。
いつからかサクラは着替えを見られるのをひどく嫌がるようになった。
理由は…カカシにとっていくつかある『深く考えてはいけないこと』のひとつだ。

キッチンで人の姿になりトーストを焼く。
ハムとレタスとチーズとトマトをのせただけのオープンサンドをテーブルに置いたとき慌しくサクラが二階から降りてきた。

「サクラー、ごはん」
「わかってる!」

返事はあってもサクラが直行するのはまず洗面所だ。
跳ねた髪を撫で付けて、ドライヤーでブローして。
その日の髪型が決まるまで主がテーブルに着くことは無い。
いつもと同じ朝…それを壊したのは一人の訪問者だった。

「サクラちゃん!一緒に学校行こうってば」










テーブルの上にはカカシが今朝作ったオープンサンドがラップのかかった状態で放置されている。
これから暫くはカカシにとって退屈な自由時間だ。
さすがに人目の多い日中に独りで散歩するわけにもいかず…サクラが学校から帰宅するまでの間、カカシは主にテレビを見たり昼寝をしたりして過ごす。
昨夜はほとんど眠っていなかった為、一眠りしようとカカシは階段を駆け上った。
薄く開いたドアから身を滑らせてサクラの部屋に入る。
そしてベッドの上に脱ぎ散らかしたパジャマを床に引き摺り下ろして…カカシは徐にその上に寝そべった。

サクラの匂いがとても好きだ。
なんと言っても安心する。

『絶対的信頼』

しかしそれはあの事件以来少しずつ形が変わってきたように思う。
もちろん、信頼はしているが…カカシにとってサクラは主であると共に守るべき弱い存在であるという認識。
そもそも自分が人間の形をとれるようになったのもサクラを強く守りたいと願ったからに他ならない。

「…うん。それだけだから」

だからサクラが今朝の男(たしかナルトと言ったか)と顔を合わした瞬間に頬を染めたことだとか、自分に行ってきますのキスをしなかったことに対して感じているこのもやもやとした気持ちは『深く考えてはいけないこと』なのだ。

「寝よ」

カカシは大きな欠伸を一つして、サクラのパジャマに顔を埋めて眠りについた。









2009.07.05 
まゆ