幸福論 −愛のカタチ−




心なしかしっとりと湿った空気に独特の古い蔵書のニオイ。
サクラはこのニオイが好きだった。
なんとなく気持ちが落ち着く。
山積みにされた本の中、小さい頃よく読んでいた懐かしい童話を見つけて手に取ると、サクラはペタリと床に座り込んだ。

ここはアカデミーの図書室。
今日の任務を早々と終えた七班は運悪くイルカ先生に捕まり図書室の本の入れ替えを手伝うこととなった。
手分けして作業に当たる。
サクラの担当は、アカデミーの中でも低学年向けの…物語が置かれている棚だった。

「手が止まってるぞ、サクラ」

微笑を浮かべて本を眺めていたサクラの頭上から、咎めるカカシの声が降ってくる。

「こらこら、今日は片付けデショ?」

カカシはサクラの傍に屈みこみながら、サクラの手から本を取り上げるとタイトルを見た。

『シンデレラ』

「とっても好きだったの、その話。…ほら、女の子の夢じゃない?!いつか王子様が…って」
「王子様、ねぇ?」

くくくと喉の奥で笑うカカシに、サクラは軽く睨みつけるとぷぅっと頬を脹らませた。

「…なによ」
「別に。…オレは『人魚姫』の方が好きだな、どちらかと言えば」
「どうして?あれって、アンハッピーエンドじゃない」
「そう?現実的でイイと思うんだけど。大体さぁ、殆どの物語が『いつまでも幸せに暮らしました』って終ってるデショ」
「ダメなの?」

そこがいいのだ、と言わんばかりのサクラの返事にカカシは意地悪く問い掛ける。

「サクラは『いつまでも』って、いつまでだと思う?」
「はぁ?」
「五年?十年?それとも死ぬまでずっと?…そんなこと、ありえないよ」

サクラは、軽口を言うように喋っていたカカシが『ありえない』と言ったとき、一瞬だけ真剣な目で自分を見たのを感じた。

「せんせぇ、屁理屈ー!『いつまでも』は『いつまでも』なのよ!!」

サクラは微妙に重い空気を振り払うように、心なしか強い口調で捲くし立てた。

「はいはい。じゃあ、早くサクラにも王子様がくるといいな」

カカシは苦笑いすると、持っていた本をサクラに突っ返して立ち上がる。

「ほら片付けないと終わらないぞ。…さて、あいつらの方も見てくるか」

そう言い残すと、カカシはその場から離れていく。

ねぇ、先生。
私…『いつまでも』先生と一緒にいたいの。
どう言えば解ってくれる?

サクラは遠のくカカシの背中に…心の中でそっと呟いた。










初めは…とても怖い人だと思ってた。
里で指折りの上忍だし、いつも飄々としてて何考えてるのか解んないし…元暗部だし。

でも。
殆どが面布に隠れてはいるけれど、時折見せる微笑がとても印象的で。
瞳が…離せなくなった。

先生を瞳で追いかけるようになって、わかったことがあるの。
繊細で傷つきやすくって…でも、平気なふりをするのがとっても上手。
だから、誰も気付かないのよ。

…先生がとても弱い人だって。





「すっかり暗くなってしまったな」

イルカは空を見上げながら…付き合わせてしまった教え子達とその上司にすまなく思った。
七班のメンバーとイルカがアカデミーの門を出たのは日もすっかり暮れてしまった後で、東の空の低い位置には淡い光の月が見え始めている。

「イルカ先生ー!!ラーメン、奢って!ハラ減ったってばよ」

イルカは腕に纏わりつくナルトにバランスを崩しながらカカシを振り返った。

「何か食べて帰りますか?」
「あ…イヤ、オレは。アスマ達と飲み会でして…」

すまなさそうに頭を掻くカカシに、イルカは逆に謝った。

「遅くまで付き合わせてしまって…間に合います?」
[ははは。十分ですよ。どうせ、朝まで飲んでますしね。今度はイルカ先生もお誘いしますよ」

先生達の会話が一段落ついたところで、サクラが口を挟んだ。

「イルカ先生、私も家へ帰るわ。きっと、夕飯が用意されてるから」
「そうか。じゃあ、しがない一人暮らしの男3人でラーメンでも食べに行くか!」

それではとイルカはカカシに頭を下げると、はしゃぎ回っているナルトと相変わらず無口なサスケを連れて歩き出した。

残されたサクラにカカシが声を掛ける。

「お姫様、家までお送りしましょう」

おどけて差し出される手に、サクラは頬を染め、嬉しそうに手を重ねた。

「よろしくてよ。王子様」





王子様、か。

サクラの家へと向かいながら、カカシはサクラの言葉に苦笑する。

「アスマ先生達と飲み会って…楽しそうね?先生」

サクラのやわらかな声がカカシの耳をくすぐった。

「まぁね」
「アスマ達って…他にも誰か来るの?」
「誰かって言っても…いつものメンバーだよ」
「……女の人も、来る?」
「んー、多分、紅とアンコあたりが来るんじゃないかな?」

あいつら酒好きだから…と続くカカシの言葉に、サクラは俯いて顔を歪めた。

「…早く大人になりたいな」

消え入るような小さな声。だけど、カカシにはしっかりと聞こえていたようだ。

「どうして?」
「……好きなの」
「え?」
「私、先生が好きなの」

繋がれていた手をぎゅっと握り、サクラはカカシを見上げた。春先の木々の若葉を思わせる瞳がカカシの唯一晒している右目と絡む。
あまりにも突然なサクラの告白に、カカシは道の真ん中で立ち止まった。

「…何、言ってんの。コクる相手が違うデショ?サスケはどうした?」

数秒の間をあけ、やっとの思いでそれだけ告げる。

「先生こそ何言ってんのよ!サスケくんは関係ない。私が好きなのは先生なの!!そう言ってるじゃない!」
「大人をからかっては駄目でしょーよ」

つい大声で怒鳴ってしまったサクラは、カカシにあっさりとそう言われ…二の句が告げない。
黙ったままのサクラの手を引き、カカシが再びゆっくりと歩き出す。
…サクラの家は、もうすぐそこだった。



サクラは家に着くと食事は後回しにして、真っ先に風呂へと向かった。
湯船につかり手足を伸ばすと、目を閉じてさっきまで一緒だったカカシのことを考える。
別れ際、何も無かったようにサクラの髪をグシャグシゃと撫でて、『また明日』と言ったカカシ。

「聞き流されちゃった…」

精一杯、勇気を振り絞ったサクラの告白は、本気にしてもらえないまま終わった。
なんとなく予想していたとは言え、悔しくて涙が止まらない。
ひとしきり泣いた後、サクラは決心を固めた。
   
私が本気だということを解らせてやるわ。   
そうよ、信じてもらえるまで何度でも言ってやるんだから!!   
『先生が、好き』って…   
私が、先生を傷つける全てのものから『守ってあげる』って…
明日の朝、寝坊する先生を起こしに行こう。

…まずは、それから……










天変地異の前触れか?!
サクラがオレを好きだって?

告白されたあの瞬間、カカシは嬉しさで気が遠くなりそうだった。
なんとか平静を保ってサクラを送り届けた後、どうやってアスマ達の所へ来たのかさえ解らないほど舞い上がっている。

「やだ、何。ちょっと気持ち悪いわよ、その顔」

焼き鳥の串を口に運びかけた紅が、さっきから締まりの無いにやけた顔をしているカカシに文句をつけた。

「…何でもない」
「何でもないっていうツラかよ?それが」

アスマにも突っ込まれ、カカシは憮然とした表情で睨み付ける。

「ははぁん、さては…女ね?」

追い討ちをかけるようなアンコの台詞に…カカシはとうとう席を立った。

「オレ、明日任務早いから…帰るわ」

此処に居たのでは折角の幸せな気分をゆっくり味わえやしない。
カカシは飲み代をテーブルの上に置くと皆が止めるのも聞かず簡単な別れの挨拶を残して店の外へと出た。
夜の澄んだ空気が適度にアルコールを含んだ身体に心地よく沁みる。

『お姫様』の唯の気まぐれな言葉なんだろう。
わかっていても…それでも嬉しい。
純粋な、まだ穢れ無き子供。
そんなサクラに心を癒され…思いを寄せている、らしくない自分。
なんだか滑稽で笑えるけれど。

カカシは両手をポケットに突っ込んだまま、月明かりを背に軽い足取りで家路を急いだ。
家が見えかけた所でふと足を止める。

…何か、居る。

気配を消して近づくとそれは見慣れたというよりほんの数時間前に別れたばかりの…

「サクラ?!」

声をかけても反応が無い。
すっかり寝入ってしまっているようだ。

何、やってんだか。

カカシはサクラを抱き上げると、とりあえず家の中へと入った。
きっと、風呂上りによく乾かさなかったのだろう…腕に触れるサクラの髪は外の冷たい風に冷え切っている。
ソファーの上にサクラを寝かせると、カカシはドライヤーを探す為に立ち上がった。

やっとのことで、滅多にというよりは使ったことの無いドライヤーを見つけ、棚の奥のほうから引っ張り出してくると、コンセントを挿しスイッチを入れる。
静まり返った部屋に思いのほか大きな音が響き、カカシは危うく持っていたドライヤーを落とすところだった。

「ん………あれぇ…?」

サクラも起きてしまったようだ…が、ちょうど良いい。
寝ぼけているサクラにちゃんと座るように指示すると、カカシは強引にドライヤーをあて始める。

「せんせぇ…いつ、帰ってきたのぉ?」

まだ少しろれつの回っていないサクラに、カカシは説教を始めた。

「サクラ、何時だと思ってるんだ?子供の出歩く時間じゃないデショ。しかも、玄関先で寝込むなんて…」
「ごめんなさぁい」
「ゴメンじゃ済まないよ、ホント。…んで、何か用があったの?」

カカシは手ぐしでサクラの髪を梳きながら乾き具合を確かめると、ドライヤーのスイッチを切った。
くるりとサクラがこちらを振り向く。

「先生にどうしても言いたいことがあって」

やっと意識がはっきりしてきたらしく、いつもの調子でサクラが話し掛けてくる。

「こんな夜遅くに?」
「…ホントはね、明日の朝一番に来るつもりだったの。でも、待てなかったわ」

ふふふ、とサクラが笑う。
こういう笑い方をすると、かなり大人びて見えるから不思議だ。

「先生が、好き」

一呼吸置いてサクラの口から出された言葉は、さらにワンテンポ遅れてカカシの耳へと届く。

「…それは、どうも」
「からかってなんか無いよ。信用できない?」
「…」

肯定も否定も無く、カカシはサクラを見つめる。

「ずっと一緒に居たいのよ。先生の傍に。そうすれば、守ってあげられるもの」
「オレを、守る?」

聞き間違えではないか、とカカシは小首をかしげる。

「そうよ。私が先生を守るの」
「サクラ…オレが優秀な上忍だって知ってるデショ?だから、守られる必要なんてない」
「弱いよ」
「なっ…」
「先生は、弱い」

すべてを包み込むようなサクラの微笑みは、カカシから言葉を奪うには十分だった。

「怖がりで、傷つきやすくて、人付き合いもホントは苦手。そのくせ意地っ張りで、強がりで、何でも一人でやろうとするし……私、とても心配だわ!だから先生の傍に居させてよ。…守ってあげたいの」

サクラの両手が、ひざまついていたカカシの頬を挟んだ。

「『いつまでも』よ?!」

いつまでも。
ずっと。
永遠に。
二人が死を分かつまで……?

そんな夢みたいなこと、信じられるわけが無いだろう?

泣きそうな表情でサクラを見つめているカカシに顔を近づけると、サクラは額当てにそっと唇を落とした。
そう、まるで何かの儀式のように。

「私は先生が好き」

艶やかな、大輪の華が咲くような笑みを添えてサクラが囁いた。
それはカカシにとって、甘美な呪縛。
見えない鎖に絡み取られ、瞳を逸らすことさえ出来ない。



どれくらいの時間が流れたのか、しばらく経ってから、やっとカカシが声を発した。

「…オレはサクラの王子様じゃない」

カカシの言葉に失望しかけたサクラは、次のセリフが耳に入ると思い切り破顔した。

「どうやら…お姫様付きの騎士みたいだ」

少し困ったようなカカシの物言いは、サクラに喜びを運ぶ。

「騎士は剣を捧げたお姫様の為だけに一生を捧げる、デショ?」
「そうよ。私の為に生きてね?私は…ずっと先生の側に居るから」

『いつまでも幸せに暮らしましょう』

同時に二人の笑い声が狭い部屋に響き、どちらからともなく合わさった身体は、窓から入る月の光でひとつの長い影を造り、しばらくの間離れることはなかった。









2001.12
まゆ


2008.12.06 改訂
まゆ