洗脳 「やあ、最上さん」 軽く手を上げればキョーコはすぐにこちらに気が付いた。 「つ、敦賀さん?!」 「少し空き時間が出来たものだから寄ってみたんだけど。君がどんな『ナツ』を作り上げたか興味があってね。…お邪魔だったかな」 お昼の休憩中に突然現れた敦賀蓮とそのマネージャーに、スタジオはにわかにざわつき始めた。 押しも押されもせぬ大スターの予想外の訪問ではそれも仕方の無いことなのだが…名を呼ばれたキョーコはそれ以上に驚いていた。 「ど、どうして此処に…」 「だから君の『ナツ』を見たかったんだよ。…俺にはその権利があるだろう?」 「あんなに協力してあげたのに」というニュアンスを多大に含んだ蓮の言い回しにキョーコは咄嗟に土下座の体勢に入った。 「その度は大変お世話になり…ぶっ!」 屈んだ蓮に口元を覆われて言葉が詰まる。 慌てて顔を上げると少し怒ったような彼の瞳にぶつかった。 「そんなことは気にしなくていいから」 「…はい。すみません」 「さぁ、立って」 先に立ち上がった蓮が差し出す手を掴めば、キョーコはふわりと引き起こされた。 重力など感じさせない優雅なそれに周りから感嘆の溜息が漏れる。 「俺は…ナツのいとこ。ナツのいとこの敦賀蓮。モデルの仕事をしている。ナツが唯一尊敬している大人だ。俺もナツのことを可愛がっている…OK?」 敦賀さんの真剣な眼差しに、引き込まれる。 キョーコは反射的に頷いて…設定を繰り返した。 「私のいとこの敦賀さん…いえ、蓮」 ナツならそう呼ぶだろうと言い直す。 「蓮…」 すぅっとナツの意識が降りてくる。 そんな彼女の様子を蓮はじっと見つめていた。 「久しぶりだね、ナツ」 「蓮!」 「何を食べてるの?」 「お弁当よ。…一緒に食べる?そこ、空いてるから」 椅子を勧めると蓮は自分の右隣に腰を下ろした。 これ美味しいわよと厚焼き玉子を差し出せば躊躇いなく口を寄せる。 ぱくりと一口でほうばった彼がそれでもとても上品に見えるのは彼の醸し出す雰囲気のせいか…? まるでペルシャ猫のようだ。 ナツはくすりと笑って箸を置いた。 「ホント、飽きないわ」 「何が?」 「蓮のことよ」 「それは光栄だな」 ナツ姫は飽きっぽいからと付け加えられた言葉に口を尖らせる。 「だってしょうがないじゃない?世の中つまらないことばかりなんだもの」 「そうだね。でも…そう悲観することもないと思うよ」 たった十七年間の生で全ての事に退屈しているのに? 求める更なる刺激は止まることを知らない。 自分でも怖いぐらいだ。 口を噤んだ自分に…蓮が手を差し伸べる。 無意識の内に手を重ねれば、それは蓮の薄い唇へと導かれた。 手の甲に柔らかな感触。 そして、湧き上がる優越感。 一流のモデルとして世界を飛び回る蓮が…今は自分にかしずく騎士のようだった。 「蓮がずっと一緒に居てくれたらいいのに。そしたら退屈なんて感じないわ」 「いるよ」 そっと手を解かれ…失う熱に気落ちする間もなく蓮の指は自分の胸元へと伸びてきた。 「なっ…」 ぴくりと反応するナツの身体に、蓮がうっすらと笑みを浮かべる。 「このペンダントに魔法を」 摘み上げた淡いピンクの石はその姿をより美しく見せる繊細な台座に収まっていた。 『プリンセス・ローザ』 キョーコがナツを演じる為のアイテムとして作り上げたネックレスだ。 チェーンの長さには限りがあり、蓮との距離が縮まるはずもなく…蓮は腰を浮かしてその細い首元に顔を寄せた。 ちゅっと音を立ててプリンセス・ローザに口付ける。 そしてその至近距離で艶やかに笑った。 「俺はここにいるよ。いつも君と一緒だ…ナツ姫」 「こ…子供じみたコトしないでちょうだい!」 声を荒げたナツに動揺が見て取れる。 そこには世の中を醒めた目で見る今時の女子高生はいない。 「ははは。もう少しだけ此処で遊んでおいで」 此処…すなわち『学校』で。 蓮はナツの左頬に掠めるようなキスを落として席をたった。 「じゃあ、またね」 あぁ…彼が離れていく。 またつまらない日常が始まるのだ。 「蓮!」 名を呼ばれた蓮は一度だけ振り返り…しかし、そのまま彼のマネージャーと共に部屋を出て行ってしまった。 「…あなた達、何か面白いことがあって?」 唐突に振り向かれ話を振られたカオリ達は慌てながらも役としての台詞を模索する。 「そうねぇ…ちとせのイメチェンとか?私あの子の長い髪が鬱陶しくて嫌いなのよね」 「…ふぅん。で?美容師は?」 「私がやるわ」 「ユミカが?大丈夫なのぉ?」 くすくすと忍び笑いが漏れ始め、それは次第に大きなものとなる。 自分を取り囲むように傍に来た三人の屈託の無い笑顔に、ナツもようやく笑みを浮かべた。 「セクハラ!」 スタジオの入り口を出た所で社は隣に歩く男を指差して叫んだ。 「そんなことはありませんよ。だって『蓮』は世界で活躍するモデルで…頬にキスなんて挨拶がわりでしょうから」 しれっと返す蓮に対して開いた口が塞がらないのはこのことだと社は思った。 その前にも色々やってたじゃないか! 手の甲にキスとか…プリンセス・ローザにキスしたのだってキョーコちゃんの無防備な胸元に近づきたかっただけだ。絶対。 「…ホントお前ってヤツは…」 反撃の言葉を飲み込んで腕時計で時間を確認した。 次の仕事まで十五分。 同じ局とはいえ、撮影現場は離れている。 「我侭言ってすみませんでした。急ぎましょう」 蓮の声に、彼が仕事モードに切り替わったことを知る。 社はそうだなと頷いて蓮と並び足早に歩き始めた。 蓮は予想以上の『ナツ』の仕上がりに内心気もそぞろだった。 もとより綺麗だった仕草にジュリエナの気品を取り込んだ彼女は間違いなく男のファンを増やすだろう。 いや、それ自体は良いことなのだが…でも。 「あの魔法はどれほどあの子を洗脳できたのだろうか…?」 大切にしてくれている『プリンセス・ローザ』に口付けて。 あまつさえそこに自分が共に居ると刷り込んだ。 「防御壁になればいいけど」 少し弱気な独り言は蓮の不安を増幅させただけだった。 2009.09.23 まゆ |